あらゆることに押し潰されて泣きそうな夜に、兄の様に慕う二つ年上の男の子にさらいに来てもらった。
多摩川までドライブをして、花火をして、芝生に寝転がって、星のない夜空を見上げた。
この数ヶ月ふたりでずっと悩み続けている出口の見えない話は、私を切なく苦しく悲しくさせた。


東京タワーや、お台場の海とガンダムや、聖蹟桜ヶ丘の坂道や、あの公園の小高い丘や、六本木の眠らない大通りや、スターバックスのドライブスルーや、整列して並ぶ団地の窓や、下北沢のカッフェーや、国道のオレンジ色のライト。
思い出はいつも、夜とフィッシュマンズと共に。


帰り際に「あとで開けてね」ともらったプレゼントは、欲しかったキーホルダーといつかの約束のハイチュウ、それからきっと一生忘れない言葉と私の不安を拭い去る言葉が書かれた長い手紙だった。
他人なんてどうでもいいと思って生きている私だけれど、いつだったかある人が私に言ってくれた様に、私は彼にどうかどうか幸せであってほしいと、手紙を読んで改めて思った。
そのためにたとえばもし彼が私を頼るのならば、私は精一杯支えよう、彼の前を歩いて道をつくろう、きっとその後で甘ったれた声を出しながらゆるやかに私の名前を呼ぶ彼がいることを知っているから。
私は、そしておそらく彼も、お互いのありのままをただ肯定的に受け入れている。
恋愛感情なんてひとさじも含まない、許容と狡猾な愛をもって。


川沿いの公園でいくつもの夜明けを迎えた、この切なくて緩慢で怠惰な夏は、なんと名付けるのが相応しいだろうか。
あとで振り返るその時には、この日々も彼も思い出になってしまっているだろうか。