地下鉄の中で、向かいに座る外国人の夫婦が眠っていた。
無防備に四肢を投げ出して眠る女性のお腹は、こんもりと丸かった。
あの中に新しい生命があって、いつか思春期を迎えて、大人になって、そうしてそいつもいつかは結婚して子供を産むのかなと思ったら変な感じがした。
水風船みたいにぱんぱんのお腹。
針で刺したらそこから羊水がぴゅうっと湧き出てみるみるお腹がしぼんで最後に胎児がころんと出てくるのかなと考えていたら簡単に光景が浮かんだ。
水で濡れた床に横たわる胎児は金魚鉢から出たそれみたい。


世界から目を背けたいわたしは、子宮に還って羊水の中でただまどろみながらたゆたっていたいよ。

雨の日に窓を開けて眠りへと向かうのが好き。
そもそも水音が好きな私は、部屋の内側でブランケットと過ごす雨の日がいっとうの贅沢だと思っているもの。


神様。
この夜は、いろんなことを思い出すための夜ね。
あの夜のことを。
あの朝のことを。
公園でのあの子の言葉を。
あの目を。


このまま眠って、目が覚めなければいいのに。

もう本当に辛いんです。
なんでそんなに圧迫するんですか。
なんでそんなに追い詰めるんですか。
やめてやめてやめてください。
私が病院通ってることだって知ってるでしょ。
私が手首切ってることだって知ってるでしょ。
私が過食嘔吐してることだって知ってるでしょ。
だから同情しろって言いたいんじゃないの。
その一因はあなたにもあるのになんで気付かないのって言いたいの。
私を無理矢理に全うな人間に仕立てあげようとしないで。
理想通りにならないからって癇癪起こさないで。
私は人形じゃないの。これでも一応意思があるの。
なんでこの家にあなたと二人なの。
なんで私にしか矛先が向かない状況なの。
なんで私なんか産んだの。
どっか行ってよ。どっか行かせてよ。

雨上がりの街の中、昔住んでいた家まで歩いた。
あの坂道。あの家。あのポスト。あの川。あの犬。
懐かしい風景を通り過ぎながら制服に身を包んで歩いた小路を抜けると、高台に建つあの家があった。
家の前の道はきれいに舗装されて貧相な木がいくつも植えられ、手入れの行き届いていたはずの庭は簡素なものに変わり、大きいガレージは改築によって家の一部になっていた。
表札は、知らない人の名前だった。


橋を渡って、川の反対側の道から家を眺めた。
一つひとつの窓を見ながら、玄関から順に、家の内部の詳細を思い出す。
玄関の天井は高かったな、リビングは広かったな、台所は白くてきれいだったな、和室はこたつがあってよかったな、二階へ上る階段は急だったけど、父母の部屋は広くて緑色のカーテンを閉めると森の中みたいだったな、わたしの部屋の壁に組み込まれたあの本棚が今の部屋にもあればいいのにな、兄ちゃんの部屋はあまりよく知らなかったな、お風呂場には天井の窓からよく光が入ったな、書斎は暗くてすてきだったな、地下の倉庫はじめじめしていたけれど先生に褒められたカイワレ大根は何色の光を当てれば一番育つかという実験をするのにもってこいの場所だったな、庭はこだわって作っていたからすてきだったな、裏庭で焼き芋つくって食べたな。


あの頃の家族はどこへ消えてしまったんだろう、どこにも消えるはずがないのに。
それが幸せとも知らずに、わたしはのうのうと生きて、無駄に幸福を消費していた。


目の前の川は、先刻まで降っていた雨を含んでどっぷりと水嵩を増し、どうどうと音を立てながら下流へと流れ去っていく。
呟いた言葉はその水音にかき消され、その流れにのみ込まれ、わたしの知らない街へ流されていく。

寝静まるであろう時間まで街を放浪したり、わざと電車を見送ったり、降りるべき駅で降りなかったり、こんなことがしたいんじゃない。


足音。視線。溜め息。罵声。暗闇。思い出。音楽。


逃げたい。
あとどれくらいすれば。

「私はちゃんとしてるのに、母親の教育が悪いからって結局私が言われるのよ」。
私がだめ人間なのは君のせいじゃないよって笑って言いたかったけど、
その場に笑顔はそぐわない気がして、とりあえず泣いてみた。
生まれてきてごめんなさいね。

母親と兄ちゃんが喋っている空間にいると押し潰されそうで息苦しくなる。
家族として当然の様に話す二人、何ともない話をそれはもう自然に話す二人の間にいる私は、黙っていて、喋れなくて、まるで私だけ家族じゃないみたいだ。
私の知らない二人。私の知らない家族。