十三のあの頃から消えたいというふわふわとした感情はずっと付き纏ってきた。
それは時に軽くなったり重くなったりしたけど、完全に消失する瞬間というのは今考えると果たして無かったように思う。
「消えたい」は、「死にたい」なんだろうか。「生きたくない」なんだろうか。それとも。
あいつが言った通り、死ぬのはエゴの塊だと思わなくも無いけれど、打たれ弱くて甘ったれた私は簡単な方法ですぐに苦境から逃げてしまう。
そこまでしてそれでも今一歩踏み出せないのは、わたしにその勇気が足りないのと祖父母より先に死ぬことへの罪悪感があるからなのかもしれない。
祖母がまたあの時の様に精神を病むのも、それを冷たく見遣る祖父を想像するのも厭だ。
だけど死んで、わたしのことを永遠に刻みつけたい人達がいる。
死んだら泣いてくれる?忘れないでいてくれる?たまには思い出してくれる?後悔してくれる?
同年代の子が不幸にも亡くなった話を聞くと、わたしはなんと罰当たりな人間なのだろうと思う。
自分より恵まれない人間なんてたくさんいるのに、恵まれた私がこんな事を考えるなんて、ね。
だけど下を見れば限が無いし、相対的な幸福なんて何の慰めにもならない。
あなたがなにげなく生きた今日を生きたかった人がいるとかそんな様なお涙頂戴的ポエムが世界には溢れているけれど、逆に考えてる人達だって溢れる程いるだろう。
どうして死にたい人間が死ねなくて、生きたい人間が生きれないのだろうと。
果たして色恋の悩みだけでこういう思考に陥ったかというと、完全に違うとは言い切れないもので、それだけでは無い、冬の所為でもあるし、飲みすぎたカフェラテの所為でもあるし、吸いすぎた煙草の所為、歩き過ぎた疲労の所為、ごろごろするコンタクトの所為。
だけどもういい加減に辛いし、自分の浅はかさが身に染みるし、神様は私に一体何を強いておられるのだろうか。
あんなに毎日お祈りしたじゃないか。十二年間ずっと。
神様が人間をつくられたんじゃなくて人間が神様をつくっただなんて私は信じないのに、どうしてこんなに。どうしてどうしてどうして。
人が一生に与えられる幸福の量は決まっていると誰かが言っていた。
きっとわたしは幼い頃にそれらを全て使い切ったのだ。
家族がみんないて、裕福な家庭で、愛情も注がれて。
わたしが罰当たりな行動を起こすのと、全ての均衡が失われるのと、どちらが先だったんだろうか。
嗚呼。誰か。